今を楽しむ

ホントに雑文。
前置きとして、誰かを侮蔑しているわけではないことを一つ。


某所でこのような一文を見つけた。
アマガミのグッズを買ったことを後悔している」と。
発言の真意は不明。
一つ分かっているのはその人が「アマガミ」にハマっていたことだけだ。
ただ『アマガミ』というゲームに飽きて、熱が冷めたときに我に返ったのかもしれない。
何かしらの要因で『アマガミ』を嫌いになり、グッズ自体も嫌になったのかもしれない。
そのコンテンツが買ってみて非常にツマらないモノであったため、
お金と時間を消費したことに対する失敗の念から発言したのかもしれない。
繰り返しになるが、発言の真意は不明である。


では、なぜここで取り上げたのかというと、『後悔』という一語が引っかかったのだ。


なぜ『後悔』するのか?


我に返って、アマガミに熱中したことを恥ずかしく思ったのか?
今となっては嫌いになったモノを好きだったことに対して嫌悪感を抱いたのか?
お金と時間を無駄にして残念に思ったのか?
なるほど、それらは「後悔」の一因になる事柄であろう。
だが、個人的には一度楽しんだモノに対して、
それらの理由で「後悔」するというのはちょっと違う気がしているのだ。


なぜなら「十分に楽しんだのではないか」と思うからだ。


ゲームに手を出して楽しんだ。その世界を広げようとCDや書籍に手を出した。
その出来云々はさておき、CDや書籍に手を出すまでの期待感はあったろうし、
それらを紐解いていくという楽しみがあっただろう。
もし“ツマらない”と気づいたとしても、それまでは“楽しかった”ハズである。
ツマらないと気づいたとき、それは楽しい時間が途切れたとき。
総括的に「ツマらない」というのことはあろうが、
「楽しいことがなかった」というのは間違いであろう。
楽しいことが少しでもあったならば、良かったじゃないか、と思う。


時間やお金を浪費したから後悔している?
ふーん、ならば、キミにとって娯楽って何なの?と聞きたい。
ぶっちゃけ、心を満たす(=楽しむ)だけで、基本的に生産性はなく、
時間とお金の浪費であろう。汚い言葉でいうならば『ゴミ』だ。
(娯楽の存在によって生産性が向上とか、娯楽を仕事にしているとか、
そういう話ではなく…)
それを忘れて、娯楽に対して「浪費して後悔」というのは妙であろう。
ハナからゴミを愛でているのだから。ゴミだということを忘れてはいけない。
その時間は無駄であることは最初から分かっているのだ。
あとで気づくというのは、それを忘れていた自己の愚かさに気づくということ。
後悔するならば、娯楽に対してではなく、自己の愚かさに、だろう。


もし楽しいことが少しでもあったならば、
私はそれはそれでよかったじゃないかと思っている。
例えわずかな間でも心が満たされた。夢中になれるものがあった。
それらはゴミかもしれないが、自己の中で活力となり、昇華された。
くだらないものだって自己に積み重なられた一部…自己の一部になったのだ。
無駄…ではないよね。
好きだったものに対して、楽しんだものに対して、「後悔」しているならば、
それはちょっと悲しい。
だって、自己の一部を否定しているって言っているようなモノだから。
うん、そうだね。
過去に熱中したモノを好きだったことに対して恥ずかしく思うこと、嫌悪感を抱くこと、
それらはそのモノに対して後悔しているのではなく、
自己(の一部)を否定したがっているだけなんだ。認めたくないんだ。


自分が楽しんだものくらい、胸を張って「楽しんだ!」って思えばいいのに…と思う。
そうでなければ、その時間は自己にとって「否定される」時間であり、
積み重ねたものさえ、なかったことになってしまう。
自己(の一部)を否定しだしたら、
そのうち、別の自己(の一部)まで否定することにもなりかねない。
あれもこれも…否定しだしたら、結局残るのはなんだろうか?


偏見だけど「○○を後悔している」という人は、あれもこれもと後悔している気がする。
何かを楽しんだとて、すぐに「後悔」してしまう。後悔ばかり。
後悔ばっかりじゃ、つまらないんじゃないかな?


私は例え、熱が冷めたとしても、かの作品が好きだったことは否定しない。
グッズは確かにロクでもないモノが多かったが(汗、
それでも自分なりに楽しめたのだ。悔いはない。


今でも言えるね。
アマガミが大好きでした。そして、これからも楽しんでいく。